「光るグラフィック展 0 」展覧会レビュー|室賀清徳(編集者)
2021.9.8
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1975年長岡市生まれ。1999年よりグラフィックデザイン、タイポグラフィ、視覚文化についての企画を中心に編集する。また同ジャンルについての評論、講演、展示企画を国際的に行っている。『The Graphic Design Review』(JAGDA)編集長。
1990年代から2000年代にかけて、デジタル環境は文化や経済の新しいフロンティアとして脚光を浴びた。それはやがて日常生活の基盤となり、私たちはデジタルとアナログ、オンラインとオフラインの狭間で、この新しい環境がもたらす変化に翻弄されながら生きている。
デジタル環境が巧妙に日常に溶け込む一方、プロジェクションマッピングやドローンを用いたインタラクティブアートが、分かりやすい「デジタルの凄さ」の表現としてメディアを賑わせてきた。
しかし、これらはイリュージョンやスペクタクルによる驚きを主眼としている点で、本質的には古代の洞窟絵画や19世紀の幻灯機と変わらない。デジタルが「ふつう」になることで、「デジタルであること」の意味は見えにくくなっている。
田中良治は冒頭で触れたようなデジタルメディアやインターネットの勃興期を背景に、広告やデザインにおいてその可能性を提示する実験的なプロジェクトを行い注目を集めてきた。しかし、田中はその後の20年にわたる活動のなかで、デジタルデザインの投機的な潮流から離脱し、人間とデジタル情報の関係に地道に向き合うようになる。
今回、クリエイションギャラリーG8で開催された「光るグラフィック展0」は、「ゼロ」が象徴するように田中のそのような態度をあらためて提示するマニフェストとなった。
本展の作品群は大きく分けて二つの視点で構成されているようにみえる。
ひとつはデジタル性の再確認である。一般にはデジタルとアナログの区別というのは、動作の仕組みが電子的かどうかの違いと思われている。しかし、この両者の言葉が本質的に意味するのは離散的(つまり、ある変量がとびとびの値しか取りえないさま)か連続的かという区別だ。この「とびとび」な表現の基本系として、田中はデジタル時計とドット絵を提示する。
デジタル時計は時間という人間生活の根本に直結する、いわばデジタルアートの古典的フォームだ。また、低解像度のピクセル表現はメディアの画像がいかに高精細でも、非連続的な点の集合でできていることを象徴的に示す(亀倉賞受賞者のポートレートは、ある種のサービス精神だ)。
本展のもうひとつの軸は、デジタル技術が構築する空間的リアリティだ。会場の各所に設置されたカメラの映像をひとつのモニタに表示する作品や、会場を模したレトロなCG空間を一人称でウォークスルーする作品は、人々が現代のイメージ技術において当たり前のものとしている人称と視点の構造を整理してみせる。
以上のように、田中はデジタル環境と人間をつなぐ基本的なリアリティを、巧妙なデジタル技術のデモではなく、「枯れた」技術を用いたグラフィック・インターフェイスとして表現してみせる。シンプルで本質的な作品群が淡々とならべられた会場は、料理でいえばご飯と味噌汁と漬物の定食といった風情だ。
振り返るとグラフィックデザイナーたちはその歴史の初期から発展期にかけて、オフセット印刷がプロセス4色で表現されているという技術的な本質を、実践と実験の両方から探求し続けていた。印刷物がいかに美しくリアルなイメージにみえようとも、それを成立させている技術要件こそが人間とデザインの社会的なつながり方を規定することを、かれらは直観していた。
田中はそのようなデザイナーの精神をデジタル環境を素材に亀倉賞記念展という舞台で再演した。そしてデジタル情報とグラフィック表現の本質を、掌中のスマホと大がかりなスペクタクルの間から真面目すぎず、ふざけすぎず、個人の姿勢のもとに取り出してみせたのだった。
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